花月堂の歴史

昭和59年お正月
昭和59年お正月

花月堂は、明治4年神田神保町で創業しました。
明治維新後の京都を見限り東京で商いをと考えた公家出身の在原正成が職人を使って
開業したのが始まりです。
在原家には跡取りがいなかったので、職人に後を譲ったのが当家の初代です。

区画整理のため三ノ輪に移ってきたのが明治44年。
明治、大正、昭和、平成と続くと何年目になるのかとっさには計算出来ませんが
それを知ってか、当店のお休み処に置いてあるガイドブックの
当店の書かれているページに

明治4年(西暦1871年)
明治44年(西暦1911年)

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店内お休み処

と書いた紙を栞代わりに挟んでくれたお客様がいました。

現在、神田から始まって6代目、現在7代目が中核となっています。
当店の屋号は会社名と同じく花月堂本店です。
本店支店と間違える方がいらっしゃいますが、そのままの屋号です。
花月堂本店の紋は、花に月の商標を扇で囲んだ物ですが、この扇は明治時代、3代目(当家の初代)が今川小路の風月堂で修行をした関係で自分の代に商標を扇で囲んだ
そうです。

明治気質の菓子職人だった3代目の教えは”材料を多く使って、材料を消してしまわ
なければいけない”
というもので、砂糖や粉を多く使っても多いと思わせるなという事でした。

それには”常に最高級の材料を使え”という事でもありました。
砂糖をたっぷり使っても、甘ったるいようではいけない。後口の良い品を作りなさい。
今なお、この教えを忠実に守って、菓子づくりをしています。

花月最中
花月最中

和菓子も時代時代で様々な新しい物がつくられています。
花月堂でも時代にあった物を作ってきました。
その中で、明治44年から同じ形、同じ売り方をしているのが花月最中です。

柔らかめに撞いた餅を薄く伸ばし型に入れ、軽焼きのように焼いた皮にあんを詰める。
お笑い最中と呼ばれるぱっくりと口を開けた形式。
しっかりとした餡なので、はみ出る心配は有りません。餡が見える最中は当時は無かったそうです。
現在、豆大福が主流ですが、昔は、大福餅に赤えんどう豆は入っていませんでした。
餡を丸めた物に、長方形に切った豆餅を巻くように載せた絹巻大福でした。
豆入りの大きな豆大福は画期的な商品だと思います。
最中、大福、どら焼きなど結局好まれるのは、昔から続く和菓子の種類のようです。

シンプルな分、ごまかしが利かないので、味で勝負と言うところでしょうか。